昭和50年9月28日 朝の御理解
御理解第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃというても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいにいかねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
私今朝方お夢を頂き、ある人が大変大きな傘を、お茶、野立てなんかに使いますよね。大きなありますよね。あの傘よりもっともっと大きな傘です。この人は本当に、傘と言えば安心のおかげと言われておるが、これは大安心のおかげを頂いておる人であろうかと私は思うたら、ね、この傘では役には立たんと言うことを頂いた。この傘では言うならば用に立たんと言うのです。それから色々思わせて頂いたんですけど、なるほどこの方の道は傘一本で開ける道とこう言う。傘一本で開けると言うことは、安心の境地を開くと言うこと。ね。どんなに今にも降りそうにあっても、雨傘をたとえば持って居れば濡れんですむという安心がある。もし傘を持たずに外出する。雨模様になってきた。ポチポチ落ててきたということになると、もう慌てんならん。ね。又は濡れなければならない。と思うから不安である。曇ってきただけでも不安である。なるほど教祖のおっしゃるお言葉とは、傘一本で開けるというのは、いつも絶えず傘をここにいただき続けておるということ。いうならば安心をいただき続けておること。どんなに曇ってきても、降っても、いわばこの傘があれば大丈夫という、その安心を開いたら頂いたら、なるほど傘一本、それこそ傘一本で人が助かるだろう。道が開けるだろうと思います。だから傘というのはそういう意味ですから、それがなんと大きな大きな傘ですから、これは大安心と私は思うたのです。ところがこういう安心では役には立たん。ものの用には立たんということなんです。それでそういうなら大きな傘ということは、どういう意味をなすものであろうかと。合楽に御神縁を頂いて、初めて頂く御教え、まず御教えの素晴らしのに驚きます。みんなが。又おかげを受けることにも驚きます。本当に神様はござるという風に思うようになります。ね。そして親先生任せにさえなっとれば大丈夫がのと、誰にでも言えれるようなおかげを先ずは頂くようですね。みんな。だから親先生任せにさえなっときゃ大丈夫ですがと、又人にも言え、自分も思えておるというような、あたくしは安心を、いうなら大きな傘のいうなら、大安心なら、でない大安心だと思いますね。いうならばあまりもの安心だということでございます。ね。はーこれは金光様の信心を頂いて良かったと。こういうおかげを受けられる。しかも毎日毎日の御教えのありがたさ。これはね、少し打ち込んだらそこまではいくです。誰でも。今まで自分の心の中に信心の喜びなどというようなものは、もうさらさら思うても見なかったような事柄の中から喜びが湧いてくるようになる。いうなら信心の喜びの芽が出るようなもんです。ね。そしてまーなにかにかにつけて、親先生どうさせて頂いたらよろしいですかと相談を受けます。お取次を受けます。そりゃ右がよかばい。左が良いばいと頂かせてもろうてです。それがなるほど親先生任せになっとればおかげが頂くという時点で、もう自分は安心のおかげを頂いたかのように思います。ね。私はこれであったら、金光教の信心は全世界に広がっていくだろうと思いますけど、ところがどっこい問屋はそう簡単には下さないということです。安心のおかげと言われておる、仏教でいう安心立命と言ったようなおかげがです、そのような簡単なことで開けるとは思うてはならないということをあたくしは分かっていただきたいです。ね。なぜってだんだんおかげを頂いてまいりまして、親先生任せになっておって損にもなりゃ、かえって困ったことにもなりゃ、それこそ人から笑われるような結果すりゃが生まれてくるんですからね。秋永先生(アキナガ)ところお母さんが、まだ健在で、もうそれこそ、当時の樺目一辺倒の時代でした。田んに虫がでけました。田んぼに。まーよそあたりはもうどんどん消毒をしていかれる。ところがあちらのお母さんだけは、もう人間が薬を飲まないように、田んぼにも薬をかけるようなことはせん。油を撒くようなことはせん。教祖様の御伝記の中にも、それこそ油一滴まくなと言われて、ああいうおかげを受けておられるのであるから、もう親先生任せになってということであったですから、田んぼに油も入れなかった。薬もまかなかった。ところがその田一たんだけは全部虫でやられてしもうた。ね。まーそれこそ信心しよって、本な金光様金光様ちのぼせとるけんあげなことになったと言うて、まー笑われただろうと思います。ね。ならそういうことが一ぺん二へんじゃーない。秋永先生(アキナガ)の、ならあたくしとの関係を言うと、もう30年近くからのいうなら信心関係を持っとりますから、その間にはそれに似たようなことはたっくさんございました。ね。そこをあたくしはね、そこのところを頂きぬかせて頂くということ、これはあたくしが、福岡から善導寺の教会にお参りをさせて頂い、福岡におりました時分でございますから、電車で帰ってまいります。その日は、雨模様でしたから傘を持って出ました。そして、宮の陣、久留米で乗り、大城、甘木で乗り換えて、それか大城から歩いて善導寺まで来るわけです。大木の駅でおりましたら、傘がね忘れてきとるです。そん時に頂きましたご理解が、今聞いて頂いたような、ね、傘を持たないとこんなに不安、傘を持たないということは、こんなに安心を受けられない。いつもこの傘を持ち続けておれば、今にも降りそうな時でも心配はいるまいがというような、いうなら道を歩き歩き、そういうご理解を頂かせてもろうて、そして本当の安心というのはね、その傘をさして、雨に風におうた時に、いわばあの傘が反対に
ひっくり返るでしょ、ね、そしてバラバラになるでしょう、千鳥がけでもなんでも取れてしまうでしょう。ね。そういうところを通らせて頂いて、その傘のえを杖にして、頂いた次の傘こそ本当の安心だというような意味のことを頂いたことがあります。ね。だから安心のおかげというのは、ただいま私がもうしますように、ね、お参りをする、御教えがありがたい。おかげを頂く。ね。親先生の言いなさるとおりに間違いない。確かに間違いはないです。けれどもその過程においてはです、ね、神様任せになったのに損をした。神様任せになっとたとにこういう結果しか出てこない場合もたくさんありますけど、そこを私はありがたしという頂き方というか、そういう受け方を体得させてもらい、又そういう風に受けることが本当だという事実をね、体験、そして教えと相まって頂いていくうちにです、いうならば本当の安心。いうなら本当傘、いわゆる役に立つ傘が頂けると思うのです。どうですか皆さん。親先生任せになっときゃと大丈夫ですがと、今言うておる人はねー、そのいうならば役には立たない。本当の時には役には立たない。ようなようには思うようには立たない大きな傘を持っておる時だと私は思いますね。いうなら傘からかえって振り回されるような大きな傘。だからそれがもし大安心とするならね、もうとにかく瞬く間に世界中に信心は広がっていくでしょう。ところがそういうことではないのです。天地の親神様が氏子に願われるということは、氏子信心しておかげを受けてくれよとということは、どういうことがあっても驚かんですむ。どういうような場合でも合掌して受けられる。信心を身につけてくれよ。そこで初めて人間の心の助かりがあり、又はそこから形の送り合わせが頂けてくるようになる。ね。だからそこのところを、信心は難しかと言えば難しいのであり、けれどもです、その所の理が分からせて頂くようになるとです、ね、逆境であれば逆境であるほど、いよいよ元気が頂けます。いよいよ教祖様の教えてくださる、親先生が教えてくださる教えを、いよいよ実証させて頂くのはこの時とばかりに、勇猛心が湧いて参ります。こういう難儀な目に遭いましたけれども、教えに基づいてこのようなおかげを受けましたということ。
昨日は北野の教会で信徒会の信心研修会がございました。若い婦人の方達を中心とするところの研修でございました。合楽からどなたか一人話をしてくれという話をいただいとりましたから、久留米の佐田の(サタ)若奥さんにお願いして、お願いしてもらいたいなーと。合楽からもちょうど12名おかげを頂いとりました。皆さん帰ってきてからもう、本当に今日はおかげを頂いた。もう信徒会全体も素晴らしかった。素晴らしいおかげでしたが、最近の信徒会のいわゆるこの盛り上がりというのは、もう本当に素晴らしい。というておられます中に、佐田(サタ)さんの話を頂いて、いつものことながら感心したと。まーよーあれだけのお話ができなさる。内容がなからなければできることではない。もうあたくしどももおかげを頂いたが、いわば昨日の会合に出ていたみんながおかげを頂いた。あちらこちらの信者さんがたから色々な、も少しお話をしてくださいと言われるような声まであったということでございます。
これは昨日福岡の川上さんが(カワカミ)、(?)熱心に日参されます。皆さんのご承知のように、もうそれこそ、福岡からここまでの行き戻りのバス電車の中で、日にもう少なくとも5人6人の方に、示現活動を一生懸命お話をされる。そしてここで今日はこういう方にこういうお話をさせて頂いたというてお届けをなさいます。ところが昨日、朝のお夢に干しいわしと椎茸のお夢を頂かれた。干しいわしとらそれか椎茸のお夢をいただかれ、どういうことでしょうか。『あなたがね毎日毎日福岡から参られる時に、これが示現活動だと思うて、合楽の話を一生懸命させてもらわれた。それはあなたが、あの示現活動が始まってどんくらいになりますかね。例えば2年なら2年の間、お話されたんですから、そうですねー、日に5人づつ話しても、10日で五十人、ひと月では150人、一年ではいうならば千何百人、何千人の人に一生懸命に合楽の話を、金光様のお話を、親先生の話を取り次がせて頂いた。自分が頂いとる体験、自分が頂いとる内容を話すのですからキリがないほど話せます。それであたくしは昨日、もうおー、川上(カワカミ)さん、いうならば電車ん中でバスの中でお話をなさるということの修行が、もうこれで終わった。いわしということはもう言わんでも良いということで、話さんでも良いということである。これからは椎茸の竹編に耳と書いてあるですね、竹という字は素直ということ、素直に今度は人の方、お話を今度は聞くがわにまわらなければいけないというお知らせなんです。もう神様のその、そのー表現ちゃ素晴らしいでしょうが。ね。あたくしも時々思いよったんです。毎日毎日話されたら腹かかれたとか、またあんたの話を聞かなんと腹かかれる人がだいぶあるそうです。ほらあのおばさんがまた来たけんで、また話きかにゃんけんちと思うてから、変わられるという方があるそうです。こりゃもう熱心で、捕まえたらはなさんという行き方で話されますからね、反対を受ける場合もあるわけです。お寺のお坊さんであろうが、天理教の先生であろうが話されるわけです。ね。ですからこりを積ませることもあったろうけれども、というて何千人の人に話されましたけれども、一人とも合楽にお参りになられたという人がないのも不思議でした。だからいかにね、その話をすることによって、自分自身が力を受けるためであるということがわかるでしょ。自分、これはだから教会のためでも神様のためでもない。自分自身が力を受けるために、神様は、もう話すなとも話せともおっしゃらなかったことになるのです。弁実は爽やかです。信心の内容はとても深いです。同時に自分が素晴らしい信心体験を持っているのですから、鬼に金棒です。話をすることならどんな話でもできる。それこそ天理教の先生であろうが、お坊さんにでもそのとうとうと話がでけるほどしの内容を持っておられる。さあ悲しいかな、ところが徳がない。力がない。けれども昨日は、昨日までは、神様の方が修行で受けてくださった。これからはもう人に話は、求められれば別ですけれども、こちらから積極的に話すのはやめて、これからは素直に聞くということだけに精進させていただけと。これは確かにきついことです。お話のできる人に話すなということは、こげんきついことはないです。ね。けれども家に帰って、息子やらお父さんが喜ぶやろう。(?)私は言いました。帰ったら主人にも子供にも話さんならんから、ね、もう鼻につくようなこともあったじゃないかと思います。今日からどん話しちゃならんですよと。「お母さん今日のご理解はどうであったか」と聞かれたらまた別だけれどもね。もう今日からも人には言わん、話さんということを修行とさせてもろうて、人のいうことを素直に素直に聞かせてもらうということをこれからは修行させてもらわないかん。これからが本当の力ができると。
これは今私が話をしました、佐田(サタ)の奥さんの場合でもそうです。何年間、もうあれほどのお話をできる方がね、私が一切お話をしなさんなと申しました。普通でならあれだけお話のできる方ですから、誰にでも話してもらいたいわけです。けれどもそれでは奥さんの修行にならん。ね。自分が言いたいこと、したいことをじっと言わんでしたい、辛抱することは大変なやっぱり信心の修行です。ね。あるときには、ご本人は梔子の花を頂かれました。ね、だから佐田(サタ)さん、今日をかぎりに、もうくちなしになんなさいと私は言いました。ね。そのことのお許しを頂いたのが、何年かぶりでした。何年間というものは、あれだけのお話をされる方がお話を、ただ必要なことだけしかお喋りせんということに決めた。そりゃもうそーうとうつらかったごたるですね。もう特にあの色んな研修会なんか時にです、佐田(サタ)さんの顔ばみよるとね、顔がこーこいうて変わるんです。もう内容にいっぱい持っとるでしょ。あげなことが、こう言うた方がまーだ良い。あたしゃ、そういう時にはこういう体験を持っとるということを言いたいけれども話したいけれども、言わん話さんのが、いうなら修行ですから、もうこっちから私は、その佐田(サタ)さんの顔ばみよると分かったです。みんなが分かったです。もう話したいであんなさろう。言いたくあんなさろうというような辛抱をさせて頂いた時にです。最近、佐田(サタ)さんのお話を聞いて人が助かるようになったです。力。ね。人が佐田(サタ)さんのお話を聞いてお参りしてくるようになったです。この辺のとこが実に微妙ですね。川上(カワカミ)さんの場合ももうそれこそ何千人の人に毎日毎日、いうと、お話をしてこられた。けれどもそこに人が助かるということがでけなかった。結局自分自身はお話の稽古をさせてもろうただけであり、同時に神様にうち向かう、そのための力をつけられるのであった。昨日を境に、これからはいよいよ力を受けられることであろう、川上さん(カワカミ)というて求めて、お話をされたら、今度は人が助かるほどしの内容のある力のあるお話ができなさるであろうと私は思います。問題は力を受けなきゃいけません。ね。いわしになることはきつい。くちなしになることはきつい。これは皆さんの場合とは違いますよ。これは佐田(サタ)さんであり、川上(カワカミ)さんの場合。皆さんは一生懸命、示現活動の、それこそお話の稽古のためにもお話をなさらなけりゃなりません。ね。
ね。私は今日皆さんに、この58節とは全然違ったお話を聞いてもらいました。傘のお話、安心のお話、そして今、佐田(サタ)さんと川上(カワカミ)さんのお話を聞いていただきました。ね。そしてこの58節をもういっぺん、ね、例えば人から泥棒だと言われても、または乞食だと言われても腹を立てるな。しっかり信心の帯をせよということはです、例えば話したいけれども話さん時にはしっかり信心の帯をしなければ、ヒョロヒョロ出てきそうにあるんです。信心の帯をしなけりゃならん。ね。例えて、私どもの信心でおかげを頂いたの安心だのと言うておるけれども、それではいよいよの時には、役には立たない信心、いよいよの時には役には立たない傘ではないかどうかということを改めて気づかせてもらって、ね、そしてここでいうならば泥棒だと言われても乞食だと言われても腹の立たんですむ、泥棒だと乞食だということは、どのようなことがあっても驚かんですむ、慌てんですむ、それを信心でいただけれる信心の帯を、その度にしっかりしていけれるという信心をいただけた時に、初めて安心のおかげというものが許されると思います。ね。だからそこんところを聞いていただくために今日は、今初めから最後まで聞いて頂いた話を聞いてもらった。ね。
皆さん泥棒だと言われて乞食だと言われて、悪口を言われて、どういうことが起こっても、些細なことで顔色が変わるようなことでは、いつまで経ってもまだ役に立たない傘を持っておるようなものだと悟らせてもろうて、いよいよの時役に立たせてもらう、いうならば安心の傘が持たれるためには、泥棒じゃと言われても乞食じゃと言われても、腹を立てんですむ、神様が見てござる世界に生き抜くことが信心だというふうにいよいよ思い込ませて頂いて精進させていただくということ。そこから力がいただける。ね。その力がです。驚かんですむ。慌てんですむ。どのようなことがあっても、いうなら微動だにせんですむような信心をいただいた時に、初めて安心のおかげを頂いた。そういう意味において、とにかく神様任せ親先生任せになっておけば大丈夫ですと、お取次を頂いて起きてくること一切がおかげだといただけることになるんです。ね。だからそういうおかげ、そういう信心まで、お互いが信心を進めていかなければなりません。